和食STYLE

文化遺産にふさわしい店「この一品」 新・和食めぐり⑪玄蕎麦 野中の「蟻巣の田舎蕎麦」

世の中に蕎麦好きが多くいることは知っていたが、実はほんの7年ほど前までその美味しさを私はわかっていなかった。何軒もの有名店にも行ってみたが、心に残るような味には出会えなかった。しかし、その日は突然訪れた。玄蕎麦 野中は風情のある一軒家の店舗だが都心からは少し離れた場所にあり、周囲は住宅街だ。そこで概念を覆すほどの香りと旨味が備わった一品と巡り合ったのだ。

一食ずつ丁寧に石うすで挽き
蕎麦の香りと旨味を最大限に引き出した一品

玄蕎麦 野中
東京都練馬区中村2-5-11

正直に告白をすると、大人になり、それもいい年齢になるまで蕎麦が美味しいと思ったことはなかった。私は佐賀県の唐津で生まれ育ち、子どものころは大みそかの年越し蕎麦くらいしか、蕎麦を食べる機会がなかったのだ。その年越し蕎麦も決して美味しいものではなく、蕎麦は風習だから食べるものというイメージを長く持ち続けていた。大人になってからは人に連れて行ってもらったり、自分でも有名店に足を運ぶようになったりしたが、他の人にお薦めしたくなるほどの店に出会うことはなかった。

今から7年ほど前、知人とのゴルフの帰り道、高速道路を降りたすぐ近くにある玄蕎麦 野中を教えてもらった。事前に私が店を調べていたわけではなかったので、特に期待をするでもなく、お薦めの「蟻巣の田舎蕎麦」をいただいた。この蕎麦が衝撃的に美味しく、一口食べて以来、私はすっかり蕎麦好きの仲間入りをした。名前の由来は、蟻巣石でできた石臼を使って蕎麦を挽いていることにあるという。

私が今まで食べた蕎麦の中で、「蟻巣の田舎蕎麦」以上にしっかりとした香りと蕎麦本来の旨味を感じられる一品に出会ったことがない。つゆでごまかすことなく、蕎麦だけの香りと味わいで圧倒的な存在感を放っている。麺をよく見ると蕎麦が適度な粒の状態で打ち込まれていて、香りも強く、名前の通りやや男性的な田舎蕎麦といった風情だ。しかし、味わいは力強いのに雑味がなく、喉越しは非常に洗練されている。

器にはあまり詳しいほうではないのだが、蕎麦や天ぷらなどに使われている器は、どれもセンスのいいものばかりだ。華美ではないが、いいものを選んで使っているという様子で、わび、さびといった日本の文化を感じることができる。

それ以来、近くを通るたびに店を訪れていて、玄蕎麦 野中は蕎麦好きにはよく知られた人気店だということを後日知った。お薦めの「蟻巣の田舎蕎麦」は一人前ずつ丁寧に手で挽かれた蕎麦粉を使っていて手間暇がかかるため一日10食限定という貴重なもの。絶対に食べたいのであれば、平日のみ受け付けてくれる予約をしてから伺うのが鉄則だ。

プロフィール
川原 秀仁(かわはらひでひと)

街のにぎわいを創生し、建築に様々な役割を与える「施設参謀」として日本全国を飛び回る。事業と建築、和食という一見異なるジャンルの中で、伝統に基づいた本物の技術に着目。無形文化遺産として登録された和食の普及にも公私にわたり努めている。株式会社山下 PMC 代表取締役社長。

https://www.ypmc.co.jp/