和食STYLE

食の国日本〝食〟プロデューサー 松田龍太郎ブログ

Foodnia Japan 食の国 日本 連載 第76回

廻船問屋が、ひょんなことから、300年続くお味噌屋に。

まず、2019年9月9日に関東地方を襲った台風15号により、特に千葉県では、数多くの住宅に被害が出ました。また停電箇所も多く、大変な事態になったと思います。なにより、引き続き大きな被害にならないようお祈りいたします。

****

9月の大型連休を挟み、私は和歌山県御坊市に足を運んだ。向かった先は「三ツ星醤油 徑山寺(きんざんじ)味噌 堀河屋野村」だ。訪ねたのは、現在次期十八代目として店を引っ張っている野村圭佑氏。大学卒業後、大手商社に就職し、担当になったのは、幼い頃から身近だった「大豆」の取引だった。大豆は海外市場において、人間が直接口にするものではなく、「油を搾るための種子」という位置付けだった。一方、日本では国内で大豆を食品用(豆腐、味噌、醤油など)として育て、直接食べる。

「大半の日本人はこの大豆文化に気付かず、輸入すれば容易に手に入ると思っている。また自らの家業でもある醤油作りに目を転じると、醤油として販売されているものの8割以上が『脱脂加工大豆』と呼ばれる大豆の絞り粕を原料にしている。それは醤油ではない。」野村氏はそう話すと、永く続く自らの家業を、自分の道と決め、和歌山に戻ってきたのである。

その堀河屋の醤油、味噌作りのスタートは、ひょんなことだった。

もともと和歌山は「紀州」と呼ばれる地域であり、堀河屋野村が家業を始めたとされる1688年(元禄元年)は、徳川時代真っ盛りの時期。特に紀州は「徳川御三家」の由緒ある地域で、「紀州廻船」とよばれる船を使った流通を使い、江戸(東京)に材木などを運ぶ要所であった。そして堀河屋も「紀州廻船」の末裔。野村氏が現代の流通をリードする商社に入ったのも、なにか縁があったかもしれない。

1756年、その堀河屋野村の船が江戸へ荷物を運んだ帰りに、大波にさらわれ、伊勢沖で流されてしまう。そこから3ヶ月漂流し、なんと北海道択捉に漂着するのだ。そこでアイヌ人に助けられ、命からがら陸路を経て、江戸に戻り、1年後、堀河屋の船員は地元紀州に戻ることになる。紀州藩の荷物を江戸に運ぶ役割の一廻船問屋の事故。信用を失った堀河屋は家業の業態を変えることを余儀無くされる。貸金業やロウソク商、いくつかの商いの中に醤油・味噌製造業があった。廻船問屋時代、江戸の紀州藩の方々に手土産として作っていたのを家業の一つとしたわけだ。

しかし、なぜこの地に醤油と味噌が存在していたのだろうか。

実は紀州、もう一つ大きなルーツがある。それは「味噌」「醤油」が生まれた場所なのである。紀州日高郡由良町にある「興国寺(こうこくじ)」には、覚心(かくしん)という和尚がいた。彼は、高野山で修行後、宋(中国)に渡り、禅の教えと、その修行の中で、寺の食事で用いられる「徑山寺(きんざんじ)味噌」を学び、紀州興国寺に持ち帰ったと言われている。その製造の試行錯誤の中から、偶然にも重宝されるようになったのが、醤油の原型となったと言われている。そうした1禅僧の教えが、日本の発酵文化の根幹を生み出したのである。

覚心の持ち帰った製法こそ、堀河屋のモノづくりの原点。原料となる北海道産丸大豆の煮蒸しから、醤油の火入れまで、大きな鉄鍋をつかい薪火で行うこと。麹作りは機械を使わず、すべて「手麹」と呼ばれる手作業のみでおこなっているのだ。もちろん「木桶」で天然の環境で発酵を促す。まさにタイムスリップしたような時が流れていた。

この工程で私が感じたのは、特に発酵させる手法などをみると、どことなく日本酒の酒蔵に近い内容だった。それは「手作り」と、その手作りが生み出す「従順たる反復行為=ノウハウ」が蓄積されている印象を受けた。この堀河屋は10月から5月の7ヶ月で、70回もの手作業の麹作りを重ねて、今もなお日本全国にお届けしている体制を10名ばかりのスタッフで担っていることが、その商品を小売りしている自分たちも、改めて頭が下がる思いだった。

さっそく徑山寺(きんざんじ)味噌を試食させていただいた。まず大きく他の味噌とは異なる部分は、味噌の中に具材として4種類の夏野菜(瓜、ナス、紫蘇(しそ)、生姜)が入っている。味噌は、「調味料」として扱われるのが特徴で、「米、大豆、塩」が原材料ではあるが、堀河屋野村が仕込んでいる味噌は、一緒に仕込まれている4種類の野菜が肝になっている。また夏野菜ということもあり、6−8月が醸造時期であり、堀河屋野村としては「旬の味噌」を代々こしらえているのだ。

「僕らが作る味噌は、もしかしたら『熟成野菜』なのかもしれない」。そう語る野村氏の言葉と、試食した味噌の風体は、4種類の夏野菜を発酵させて生み出した熟成野菜の味わいだ。香りは香ばしく、野菜独自の甘みと酸味が感じられ、「酒のあて」「つまみ」のような感覚で、味噌本体をパクパク食べられる、愛おしい存在であり、いわゆる「天然醸造」の発酵食品だという認識を得た。

***

この発酵食品を継ぎ、続いてきた300年の歴史をどのように次の世代につないでいくのかを野村氏と話をさせていただいた。今回その話として私が感じたのは「ストーリー」と、その発酵食材を作る会社としての「経営手法」にあると感じている。

ストーリーにおいては、その「地域性」とその商材含め生まれ得る「タイミング」。廻船問屋が、そのころ「よし、味噌を作るぞ!」「この味噌が生まれると経済が変わるぞ!」というイノベーションやベンチャー気質から生まれたのではなく、「こうして感謝し、色々な人に支えられて紀州に戻ってこれた。できるだけ感謝の気持ちを忘れないように」という自然体から生まれた商材であること。そして、その気持ちを守り300年続いているという存在自体を忘れず、おごらず、手作り視点を維持しながら経営を続けていること。この2つの要素が「老舗」のポジションであり、続けていかなければならないという気質を生み出しているのだと思う。

このお店は店舗展開も数多くしないし、かといって工業化されて工場で生産されていく商品でもないと感じている。その行為が発生した場合、まったく道筋が変わり、これまでの「ストーリー」「経営」の変化に襲われるであろう。けれど、十八代目野村圭佑氏からは、その感覚は、全く感じられず、むしろその「ストーリー」と「経営手法」は間違いないプライドを感じられて頼もしく感じた。

「事業継続」「M&A」「後継者不足」。いまある事業が、次の世の中に残していく、続けていくことの重要性は、いま日本において大切なことだが、その事業を継続していく「ストーリー」と「経営手法」がどこにあるのか、ルーツはなんなのかを探り、守らなければならない。例えばブランディングという言葉もあるが、その根源は足元にあり、その事業に立ち続けようとする意思がある人間に答えがあり、新しい言葉や手法は限界があり、極論必要はないのだ。堀河屋野村で感じたこの意味は大きい。

堀河屋野村:http://www.horikawaya.com/

三ツ星醤油:http://horikawaya.ocnk.net/product-list/14

徑山寺(きんざんじ)味噌:http://horikawaya.ocnk.net/product-list/7

 

松田龍太郎

松田龍太郎

2010年より株式会社oiseau(オアゾ)を設立。主に食にまつわる事業開発・店舗開発では、これまで50店舗以上を手掛け、一方企画・プロデュースの分野では、元テレビ局カメラマンとして、食に限らずメディア、PRコンテンツの発信、企画展開を得意としている。2020年4月より「奈良蔦屋書店」2階に「ブラッスリーアンド カフェ ウグイス」として新たなポップアップレストランを、そして同じく同月、青森県弘前市に開館予定「弘前れんが倉庫美術館」に付帯するカフェ「CAFE & RESTAURANT BRICK」を、それぞれ立ち上げ、運営・事業を作り上げている。
http://www.oiseau.co.jp